「抱樸館福岡」館長青木が出会ったみなさん~その8(最終回)

Jさん 男性


  Jさんは、ある村の貧しい農家に生まれました。小さいときに両親に死に別れ、かなり年上のたった一人の姉に引き取られて育ちました。しばらくして姉の夫が亡くなり、子どもが7人残されました。いちばん上が8歳で、いちばん下はまだ1歳でした。Jさんは当時25歳でしたが、姉と7人の子どもの面倒をみなくてはならなくなりました。せっせと働きましたが、生活は楽にはなりませんでした。そのうち、仕事がなくなり、食べるものさえなくなりました。家には食べざかりの子どもたちが7人もいます。

  Jさんはある日パン屋さんでパンを一切れ盗もうとしたところを見つかり、刑務所に入ることになってしまいました。刑務所では名前は消え、番号で呼ばれるようになりました。姉や子どもたちのことが気になりましたが、うわさも耳に入りません。刑期を終えて戻ってきたJさんでしたが、刑務所にいる間に泣きも笑いもしない暗い人間となってしまいました。刑務所から出てきたということが分かると、どこの宿もJさんを泊めてくれません。Jさんは野宿せざるを得なくなりました。

  そんなとき、Mさんのところに行ったらいいと紹介されて、JさんはMさんのお宅を訪ねることにしました。これまで何度も断られていたので半ばあきらめ、自暴自棄になっていました。どうせ受け入れてもらえないだろうと、刑務所から出てきたこともありのままに打ち明けました。しかし、MさんはJさんをあたたかく迎え入れ、食事を振る舞い、自宅に泊めることにしたのです。Jさんはこころから感激しました。しかし、夜中に目が覚めたJさんは、夕食のときに見た豪華な銀の食器のことが頭から離れませんでした。あの食器を売れば、刑務所で貯めたお金の2倍にはなると思いました。しばらく迷いましたが、JさんはMさんに悪いと思いつつ、食器を盗みMさんのお宅から逃げてしまいました。

  Jさんはすぐに警察に捕まりました。そして警察はJさんをMさん宅に連行し、盗品かどうかを確かめようとしました。しかし、Mさんはこう言ったのです。「やあ、また、お会いできてうれしいです。ところで、どうなさった。燭台もあげたのに。あれも銀製だから、高く売れる。なぜ食器と一緒に持っていかなかったのです」。

  盗品でないことになりJさんは許されましたが、訳が分からず気を失いそうでした。MさんはJさんに続けてこう言いました。「わすれてはいけません。正直な人間になるために、この銀の器を役立たせることを、あなたは私に約束したのですよ。」約束などした覚えはないJさんでしたが、Jさんはこの出来事をきっかけに大きく生まれ変わります。

  さて、ここまで読まれてお気づきになった方も多いでしょう。これはいまから150年前にビクトル・ユーゴーによって書かれた「ああ無情(レ・ミゼラブル)」という物語です。Jさんは、ジャン・バルジャン、Mさんはミリエル神父です。

  私たちは支援活動をするなかで、現代のジャン・バルジャンに多く出会います。幼くして両親を亡くして苦労した人。親さえ分からず児童養護施設で育った人。一生懸命働いても低賃金で、暮らしが楽にならない人。結果、野宿となってしまった人。野宿では食べることができないので窃盗してしまった人。刑務所から出てきても、行き場がなくまた野宿せざるを得なかった人。野宿しているというだけで、みんなから疎まれ蔑まれてきた人。希望がなくなり、全てをあきらめざるを得なかった人。

  国は違いますが、社会保障制度も、社会福祉制度も150年前より格段に整備されているはずですが、なぜ今も同じような事態が起こっているのでしょうか。ビクトル・ユーゴーは、こう書いています。「この世に無知と悲惨があるかぎり、このような種類の物語も、けっして無益ではないだろう」。

  私にはこの物語と「抱樸」の思想が重なって見えます。「抱撲」が必要とされる今の世の中には、残念ながら、無知と悲惨がはびこっているのかもしれません。

  2008年9月から抱撲館福岡準備室を開設し、これまでに50人を超える人たちに野宿状態からの自立を支援してきました(2010年1月現在)。一筋縄ではいかないこともありましたが、たくさんの「出会い」がありました。支援しているつもりが、いつのまにか支えられているということをよく経験します。この出会いの機会を逃しているとすれば、「もったいない」と思います。

  いよいよ抱樸館福岡は5月に開所します。人と人とのつながりが薄くなっている今、抱樸館は、困窮者の支援はもちろん、再生すべき「地域の拠点」となってほしいと願っています。「出会い」を回避する社会は、遅かれ早かれ崩壊します。時には傷つくこともあるかもしれませんが、排除する側ではなく、受け入れ・育てる側になりたいと思います。抱樸館がミリエル神父のように現代のジャン・バルジャンたちを迎え入れ、共に生きていく拠点となるようがんばります。どうぞみなさん応援お願いいたします。

  *2013年11月現在、抱樸館福岡が開所してから利用した方は580人を超えました。

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「抱樸館福岡」館長青木が出会ったみなさん~その7

居宅さえあれば事足りるのでしょうか


  今回は複数の方を紹介し、支援活動に求められていることを考えたいと思います。 Aさんは熊本県生まれの56歳。地元の小・中学校を卒業し、電気関連の会社に就職しました。しばらく勤めましたが仕事が合わずに退職。その後、そば屋さんでアルバイト、ちりがみ交換のアルバイトを経験したのち、清掃会社で長年勤めるなど、しっかりと仕事をしてきました。

  しかし最後の職場は、旅館での住み込みの仕事。体力的に続かず仕事を辞めることになりました。住み込みの仕事でしたので、仕事と住まいを同時に失いました。少しあった貯金も底をつき、福岡市のある公園で野宿生活を送り始めた頃、公園を訪れた僕たちと出会い相談に至りました。

  生活保護を申請し、アパートの入居を支援しましたが、入居してまもなく病院に救急搬送されました。過度の飲酒により意識を失い、転倒したのです。幸い大事には至らず数日で退院しました。「ひとりでアパートにいると寂しくて、つい飲み屋で飲みすぎてしまった」と言うのです。その後も、昼間から飲酒しているAさんと何度か出くわすことがありました。

  相談員の瀬崎さん(現副館長)より厳しく注意してもらうことにしました。年上の男性に向かって本気で注意するというのは、少々勇気がいるものです。しかし、彼は瀬崎さんから厳重に注意されたあと、しばらくして言いました。「今日はお叱り、ありがとうございました」。

  本気になって相手に向かわないと伝わらないことがあります。ソーシャルワークや依存症であれば治療も必要です。加えて、ときには本気になって、ときには対立してまでも意見を言わせてもらうことも必要だと思っています。そのようななかで、この人は心底、私のことを考えてくれている、という気持ちが伝わるのだと思うのです。

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  Fさんは、Aさんから紹介された62歳の男性です。Aさんと同じ公園で野宿していました。昨年まではタクシーの運転手をしていましたが、タクシーは今や不安定な職業です。給与明細を見せてもらうと、20万円近くになる月もあれば、10万円を切る月もありました。このFさん、「同じことを何回も聞く」と、彼の相談を担当した相談員の久保さんから報告がありました。

  今(2009年)の福岡市のホームレス施策の基本は、生活保護による単身居宅です。生活保護を申請すれば、アパートを借りることは難しいことではありません。区役所周辺には、不動産業者が多く待ち構えており、営業活動を展開しています。(2009年当時)

  彼も自分で保護課に出向いていたら、アパートを借りて単身生活をすることになったでしょう。もの忘れも目立った症状はありません。しかし、30分の面接では分からなくても、数時間一緒に過ごすと見えてくることがあります。私たちは念のため、精神科を受診するよう手配しました。診察した医師の見解によると、てんかんがあり、服薬をしていないために、一時的に認知症のような症状があるのではないかとのことでした。

  もの忘れがある方が、ひとりで生活を送るのは危険です。しかもFさんの場合、住所が定まっていませんから、すぐには介護保険も利用できません。私たちは病院と交渉し、次の行き先が決まるまで入院させてもらうことになりました。もし、Fさんがアパートでひとり暮らしをして、火事でも起こったらと考えるとぞっとします。

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  Tさんは69歳の男性です。最近(2009年)まで、群馬県の日雇い仕事をしていたのですが、仕事がなく、仕事を求めて全国をさまよっていました。電車で九州までたどり着きました。お金があるうちは食べることができましたが、そのうちお金もなくなり、野宿するようになりました。昼間はショッピングセンターで過ごし、夜は海岸近くのテトラポットに身を寄せて眠るようになりました。

  ある朝、テトラポットで寝ているところに、通りすがりの夫婦が来て「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたそうです。「もうだめです」と答えました。あと2~3日、誰にも声をかけられなかったら、そのまま死んでいただろうと思うとTさんは言われました。実は、仕事にありつける自信も希望もなく、「もう死ぬしかない」とあきらめていたそうです。夫婦はなぜか警察を呼びました。不審者だと思ったのでしょうか。倒れそうな方には、救急車が必要でした。

  Tさんが私と会ったときには、かなり衰弱し歩行もままならない状態でした。彼にまず必要なことは「治療と栄養(食事)、それから休息」だと思いました。福岡市に申請し病院を受診したところ、入院が必要と判断されました。退院後は、ひとり暮らしは不安ですから、管理人つきのアパートに入居する予定です。

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  ホームレス支援に必要なことは、家(ハウス)と同時に人とのつながり(ホーム)です。家があってもひとりぼっちであるならば、ホームレス問題が解決したとは言えません。 Aさんには本気で怒ってくれる、心配してくれる誰かの存在が必要でした。Fさんには具体的な生活の支援をしてくれる人とケアが必要です。 希望がなく死のうと思ったTさんにも、彼に継続的に関わる人とケアが必要です。 絆を失い、人間の関係を失い、ホームレス状態となっている人たちには、関係を回復したり、新しい関係を紡いでいくことが必要なのです。 ホームレス支援をする人たちのなかには、施設はいらない、居宅さえあればよいと考える立場の方もいるようです。 しかし、私の経験からすると、関係(ホーム)を築き、しっかりとある程度の時間ケアができる施設(しくみ)が必要です。 居宅(家)さえあれば解決するということではないようです。

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「抱樸館福岡」館長青木が出会ったみなさん~その6

「一日も早く恩返しがしたい」 Hさん 49歳 男性


  Hさんは福岡県生まれで、福岡で育ちました。県外の大学に進学し、園芸学部で学びました。卒業後は新規就農を目指してさまざまなことを試してみたとのことですが、どれもうまくいかなかったようです。28歳のときには新規就農はあきらめ、食品関係の会社に就職しました。

  ちなみに、私がこれまで出会った野宿の方の学歴は、約半分が中学校卒、残りの半分は高卒。総じて学歴は低い傾向にあり、大学まで進学した人はごく稀です。しかし、最近大学まで進学した方も少しずつ増えてきているように感じます。

  Hさんは会社では営業を担当したのですが、うまくいきません。29歳のときには観光ホテルに転職し、接客などを担当したのですが、35歳(1995年)のときに解雇。その後、福岡県内の実家に帰り、44歳(2004年)までアルバイトを転々としました。このころ、生活の不安のためか、よくお酒を飲むようになりました。 低賃金のアルバイト生活で飲酒がはじまり、お金は底をつきました。やがて、消費者金融でお金も借りるようになりました。その後、寮付きの派遣会社に就職しましたが、給料に比べて寮費は高く、貯金はできませんでした。しばらくして作業中に骨折したことが原因で会社を退職。 急性腎不全、急性心不全を患い、さらにストレスのためか原因は不明ですが本態性振戦という病気まで患ってしまいました。手がかなり震えるので、自分の名前を書くことさえ困難で時間がかかります。Hさんは、再び実家へ帰ることになりました。

  しかし、実家の父はすでに80歳を超え、母も70代の後半。年金暮らしで家計に余裕はないうえ、Hさんの今後も目途が立たず、けんかが絶えなくなりました。「もう出て行け」と言われることもあったそうですが、それでも両親はHさんのため健康保険は扶養にし、国民年金の支払いをしてくれていました。

  社会保険庁によると、08年度の国民年金の未納率は37.9%(※)。特に、失業後、国民年金に強制加入させられた人の未納率は80.5%と発表しています。年金保険料が払えない人たちが急増し社会問題となっています。ニートやフリーター・派遣などの非正規雇用の若者も増えています。 Hさんのように両親が本人に代わって支払いをしている人たちが相当数いると推測すると、実質的に年金を払えない人は、もっとたくさんいるだろうと思います。また、収入が低かったり、不安定な人ほど結婚が困難なことが統計にも表れています。非正規雇用の人で結婚している人は、正社員の半分しかいないのです。Hさんも未婚です。

  このような状況の方が親と一緒に暮らせなくなったとき、ひとりぼっちとなり、野宿となる可能性が高いようです。Hさんですが、両親とけんかばかりになってしまうので、自分から家を出ることにしました。しかし行くところはなく、博多駅で野宿することになりました。 博多駅で寝ていると実に多くの方が訪ねてくるそうです。ホームレスの支援団体と名乗る人、アルコール依存症関連の施設職員と名乗る人、不動産屋など。どこに相談してよいものか、誰を信頼してよいのか不安で、いろいろと評判を聞き、私たちに相談しようと決めたそうです。

  彼はまだ住居が決まらないうちから「一日も早く自立して、早くこの恩返しがしたい」と言いました。とても真面目で律儀な方です。アパートに入居してからも、彼が言った通り、行動は素早く、本当に自立したいのだと思いました。 住民票異動などの必要な手続きは自分で行い、病院にも受診を開始し治療が始まりました。美野島めぐみの家でのボランティアも始めました。借金の件は、グリーンコープの生活再生相談室に相談を依頼していますので、解決の方向に向かうはずです。

 このところ、私たちから生活再生相談室に相談を依頼することが増えてきました。ホームレス自立支援センター北九州の調査では、センター入所者の約60%の人が債務を抱えていることが判っています。そして、そのほとんどが「解決可能」なケースであることも判っています。 収入がないために生活が苦しくなり、生活の為に借金をする場合が多いのですが、収入はないのですから借金は返せなくなります。 他のところで借りては返すという多重債務に陥り、やがてどこも貸してくれなくなり、「アパートを出るしかない」と思っていた方も、実は相談していれば、「解決可能」な場合がほとんどだったのではないかと思うのです。相談さえしていれば、野宿などしなくてもすんだかもしれません。

  ホームレス支援の大きな目的は、「ホームレスを生まない社会を創る」ことです。 人と人が助け合い、誰もが孤立しない社会。誰かが困っていたら、声をかけ手を差し伸べる人がいる地域。借金で困っていたら、早めに相談し、再生ができるところ。グリーンコープで言うならば、「住んでる街を住みたい街に」です。

  ホームレスを経験した人の40%が、「ホームレスになる前に誰にも相談しなかった(できなかった)」と言っています。Hさんも実家にいるときに誰かに相談できたなら、野宿を経験することはなかったのかもしれません。 しかし今では新しい人間関係を築きつつあります。野宿中とは打って変わって表情が明るくなりました。「一日も早く恩返しがしたい」と言われています。Hさんと接していると、人との出会い、希望や目標が、人を活かすのだと思うのです。

※国民年金保険料の2012年 4 月~2013 年 2 月分の納付率は、58.2%(厚生労働省「平成25年3月現在 国民年金保険料の納付率」より)ですから、改善がみられていません。

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「抱樸館福岡」館長青木が出会ったみなさん~その5

「15歳で社会に放り出されました」 Yさん 65歳 男性


  Yさんは昭和18年生まれの65歳の男性(2009年当時)。幼いころに母親が亡くなり、たったひとりの弟は養子に行くことになりました。その後、父は再婚。新しい妹ができました。しかし再婚した継母も亡くなり、そして父親も本人が15歳のときに亡くなるという体験をしました。定時制の高校に通っていたYさんでしたが、高校に通学することもできなくなり、バーテンダーとして働いて生計を立てることになりました。「右も左も分からなかった15歳のとき、いきなり社会に放り出されたように思いました。いいことも、悪いことも、バーテンダーのときに覚えてしまいました」と語りました。

  その後、20歳からある会社の下請けでサッシの取り付けの仕事をするようになり、その後ずっと請負というかたちでサッシの仕事をしてきました。しかし2004年(60歳)頃より仕事がなくなり、収入が激減しました。よいときは月に60万円もあった売上がほとんどなくなり、食べることにも苦労するようになりました。加入していた生命保険は解約し、生活費に充てました。カード会社より借りた80万円は返せなくなり自己破産もしました。そんなとき飲酒運転をし、交通事故を起こしてしまいました。科された罰金は80万円。「とてもそんな額のお金は払えない」と思い、薬を大量に飲んで死のうと自殺を図りましたが、胃がただれ、あまりの激痛に病院を受診して一命をとりとめました。

  罰金が払えない場合には、労役場(※)に留置されることになります。1日5,000円換算ですので、80万円の罰金の場合は160日間留置されることになります。この160日間はつらかっただろうと思って、Yさんに尋ねてみると「いや、助かりました。もう一度入りたいという人がいますが、気持ちが分かります。アパートにいたころは、今日どうして食べようかと不安でたまりませんでした。仕事が全くありませんでしたから。労役場では必ず時間ぴったりにご飯が出てきますし、お風呂にも入れます。また作業程度ですが、仕事もあります。80万円なんて大金は私には到底払えませんでしたし、労役場に入れてもらえて本当に感謝しているのです。強いてつらかったと言えば、自由がなかったことでしょうか」という返事が返ってきました。

  Yさんの言葉を聞いて、考えさせられました。刑務所が福祉施設化しているという事実。現在刑務所はどこも飽和状態と言われています。そして何度も刑を犯す「累犯者」が問題視されており、さらにその累犯者のなかには高齢者や障がい者が多いと言われているのです。「塀の外」の社会保障制度や福祉制度の不備、さらに雇用のない今の状況が、高齢者や障がい者といった社会的弱者と呼ばれる人たちの生活を脅かしているように思えます。「刑務所に入れてもらって助かった」ということは、今の世の中は生活が困窮した人にとっては刑務所よりも悲惨だということでしょうか。

  刑期を終えて釈放されたYさんですが、労役場にいる間にアパートは解約となり、行き場を失ってしまいました。わずかなお金を手に友人を頼って訪ねました。数日間は泊まらせてもらったようですが、ずっとというわけにはいきません。友人がいろいろと調べてくれ、福岡市内でホームレス支援を行っている「美野島めぐみの家」にたどり着き、そして私たち「抱樸館福岡準備室」につながりました。65歳になってネットカフェにも「宿泊」した彼は「あなたたちに出会わなかったら、死んでいたかもしれませんね」と言いました。

  Yさんは兄弟とは連絡が途絶え、また生涯独身でした。「兄弟の方は?」と聞いたとき、「まあ兄弟ですが、血はつながっていませんから」とぽつりと言いました。Yさんの生い立ちは不遇としか言いようがありません。両親の他界によってYさんは進学をあきらめざるを得ず、結果として低学歴のまま就労することになりました。もし、そのまま高校に通うことができたなら、今とは違った人生を歩んだのではないかと思うのです。両親の他界は、Yさんにはどうすることもできないことです。

  今、日本に「貧困」が広がっています。大人の貧困が、子どもにも影響しています。例えば、毎日新聞の今年(2009年)10月30日の記事ではこのように報道されています。

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  「学費滞納:私立高校生、10年間で3位の高さ」

  全国私立学校教職員組合連合は30日、学費を3ヵ月以上滞納している私立高校生の割合が、9月末現在で1.70%に上るとの調査結果を発表した。98年の調査開始以来、04年(1.87%)と06年(1.75%)に次ぐ高水準。同連合は「(新政権が掲げる)来年度からの高校授業料への助成は歓迎したいが、今年度をどう乗り越えるかが大きな勝負。国は早急に手を打ってほしい」としている。

  調査対象は32都道府県の328校(在籍生徒約27万人)で、私立高全体の4分の1に当たる。滞納者は4587人で、1校当たり14.0人(前年同期比1.9ポイント増)。経済的理由で今年度に中退したのは149人で、対象者の0.06%(同0.01ポイント増)だった。

  同連合は「昨年後半からの厳しい経済状況を反映した数字。特に地方で深刻な事例の報告が多い」としている。


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  親の収入がなくなったとき、子どもは進学をあきらめ、不安定な仕事につかざるを得ないのでしょうか。統計によると、若い独身男性の結婚率は、「非正規雇用」が「正規」の半分とのことです。給与が少なかったり、不安定だと結婚も困難となり少子化にも拍車をかけます。

  「生活に困った人を支援する」ということは、「その人のみ」を支援することにとどまりません。その人を支援することで、周囲の人を支援することになり、こどもを支援することになり、未来のいのちを支援することにつながり、社会をつくることになります。

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  私たちがYさんに出会って、4年。現在Yさんはアパートで順調に暮らしています。今でも「あのときは本当に助かりました」とお礼に来てくれます。魚釣りが趣味で、ときどき抱樸館に釣った魚を届けてくれます。

  非正規雇用については、まだ改善が見られません。

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  総務省が13日発表した4~6月期の労働力調査(詳細集計)によると、非正規雇用で働く人は1881万人となり、四半期ベースで2002年の集計開始以来最多となった。役員を除いた雇用者全体の数も過去4番目の多さだったが、正社員は減った。総務省は「景気対策の効果などで雇用は生まれたが、非正規に流れているのが現状」と分析している。

  役員を除いた雇用者数は5198万人。このうち非正規が1881万人で、36.2%を占めた。前年同期から1.7ポイント上昇した。正社員は3317万人で、前年同期から53万人減った。(日本経済新聞 2013年8月13日)

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※ 罰金または科料を完納しない者に対して、換刑処分として所定の作業を行わせるために留置する施設。刑務所に付設している。

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「抱樸館福岡」館長青木が出会ったみなさん~その4

「生命保険にはいりたい」 Aさん 65歳 男性


   Aさんは昭和19年、福岡県生まれの65歳(2009年当時)。博多区榎田の都市高速の下で10年もの間、野宿生活をしていました。彼との出会いはグリーンコープ組合員の女性からの電話でした。「私の夫が毎朝通勤で通る道に、いつも寒そうに寝ている人がいます。夫が話してみると性格のよい人です。ただ、私たちにはどのように支援したらよいのか分かりませんので、一度会っていただけませんか」との依頼でした。

  2008年11月頃の話です。早速会いに行ってみました。歩行はゆっくりで、言葉は不明瞭です。ひげがボウボウで一見して野宿だと分かる風貌でした。とても仕事ができるような状態ではなく、保護が必要だと思われました。僕たちがシェルターを持っていること、生活保護が利用できることなどを説明しましたが、10年も野宿している彼にとって、突然の話にとても戸惑っているようです。また、ぽつりと「僕はひとりもんやけ」と言います。生涯独身で子どももいません。両親は亡くなり、兄弟とも何十年も会ったことがありません。「ひとりだから、どうなってもよい」というふうに聞こえました。

  何度か通ううちに、僕たちのことも信頼してもらえたようです。「アパート(シェルター)に入ることができますよ。生活保護の申請もお手伝いしますよ。どうしますか?」との問いかけに「(僕にも本当に)できる?」と質問されました。彼にはまだうそのような話に思えたのだろうと思います。

  福岡市内で巡回相談をしていると、10年以上野宿しているなど野宿期間が非常に長い人と頻繁に出会いました。北九州では自立支援が進んだおかげで野宿期間が長い人は随分と少なくなっていますから、私たちにとって福岡市の状況は驚きでした。

  Aさんは2008年12月、開所したばかりのシェルターに入所しました。野宿からアパートに入居すると一件落着のように思われる方も多いのですが、これからが大変です。彼の場合、入居したときは64歳でしたが体はボロボロでした。血圧は自動血圧計では測定できないほど高く、緊急入院が必要でした。普通、これだけ高いと頭痛がするなどの症状があるとのことですが、彼には自覚症状は全くありません。「長い間血圧が高い状態が続いたために、慣れてしまったのかもしれない」と医師は言われ、首をかしげました。CTをとると、小さな脳梗塞のあとがたくさんあることが分かりました。彼に聞いてみると「そんなことは知らない」とのことでした。おそらく野宿をしている間に何度か脳梗塞になったのですが、ひとり外で生活をしていたので、病院にかかることもできませんでしたし、誰にも気付かれることもなかったのだと思います。言葉がたどたどしいのも、歩行状態が悪いのも、脳梗塞の後遺症ではないかと推測がつきました。さらに心臓も悪く、医師からは「慢性心不全が増悪した状態でいつ死んでもおかしくない」とも言われました。僕たちと出会わなければ、彼は2008年の冬に路上で亡くなっていても不思議ではありませんでした。

  正確な人数は分かりませんが、福岡市でも相当数の方が路上で亡くなっていると推測されます。野宿を数年された人は、「隣の人が亡くなった」など野宿仲間の死を多く経験しています。「ひとりの路上死もださない」ことは北九州ホームレス支援機構の目的のひとつです。人間は誰もがいずれ死にます。しかし、どこで死ぬかはその人の人生の締めくくりとして大事なことのように思われます。病院で死ぬのか、自宅で死ぬのか。野宿の方が「どうせ俺は野垂れ死にや」とよく言います。道ばたで死ぬのか、たたみの上で死ぬのかは大きな問題です。しかし、どこで死ぬかに加え、「誰」に看取られてどのように最期を迎えるのかということはもっと重要かもしれません。誰にも看取られずにひっそりと死ぬのか、友達や家族など親しい人に囲まれて死を迎えるのか。路上で亡くなるという事実は、野宿者がホームレスだったということ、すなわち「ひとりぼっちだった」という象徴のように思えます。

  「僕はひとりもんやけ」と言った彼にも、アパートに入居し時が経つなかで変化が現れました。ひとつは「携帯電話がほしい」と言ってくれたことです。電話は苦手な彼です。携帯電話は操作が難しいので固定電話を勧めたのですが、「散歩してても、いつでも連絡できるもんね」とにっこりと笑っていう彼を見て、嬉しくなりました。しかし、やはり操作が難しく、夜中に電話がかかってきたり、電話しても出てくれないこともしばしばです。

  最近になって「生命保険に入りたい」と言われました。どうしてか聞いてみると「僕が死んだあと、迷惑かけたらいけんもんね」と言うのです。彼の変化とやさしさに胸が熱くなります。「ひとりもんやけ」と言っていた彼が、「ひとり」で生きているのではなく、僕たちを大切な人として思ってくれたのだと思いました。彼が自分の死んだあと、残された人のことを思うとはなんと大きな変化でしょうか。彼が残された者のことを思う。残された者は彼のことを心に刻む。いのちとは、こんなふうに継承されるものかもしれません。

  ちなみに、生活保護では生命保険に加入することは許されていません。亡くなったら葬祭扶助が支給されますが、お葬式の費用は認められず、あくまで火葬代しか支給されません。お花を供えることも生活保護の費用では賄えませんので、北九州では自立をした方が「なかまの会」という互助会を作り、お葬式の費用などにも備えています。

  Aさんはシェルターから引っ越して、管理人さんがいて服薬やお金の管理など見守りのあるマンションで暮らし始めました。日常生活には手助けが必要なので、訪問看護のサービスも受けています。65歳。若いですから、まだまだ元気に暮らしてほしいです。

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  その後、Aさんは再び脳梗塞を起こし、自宅で倒れているところを訪問看護師さんに発見されて救急搬送されました。今は、後遺症で歩けなくなり、話すことさえできません。寝たきりの状態で長い間病院に入院しており、退院は見込めないと言われています。このまま入院が続きます。彼は今年69歳になります。お見舞いに行くと、私とは分かるみたいで、顔をくしゃくしゃにします。私はなんと声をかけたらいいのか・・・。ただ彼の手を握り、「また来ますね」と言葉をかけることが精一杯です。

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「抱樸館福岡」館長青木が出会ったみなさん~その3

「僕は働きたい」 Mさん 58歳 男性


   「僕は働きたいんです」。初めてMさんと会ったときの、彼の第一声でした。

  2008年の9月から福岡で巡回相談を始めた私たちに、新聞の報道が飛び込んできました。「弱い者いじめ楽しかった」「7少年 ホームレス襲撃」「福岡東署 容疑の13歳~18歳摘発」。新聞に記載されていた住所を手がかりに、初めてその地区を巡回してみました。川沿いの場所に、廃車が数台。野宿らしき方が暮らしているのはわりとすぐ分かりました。時刻は夕方。12月でしたので、あたりはもう暗くなっていました。

  「はじめまして。こんばんは。僕たちは、抱樸館福岡準備室の青木と瀬崎と申します。」
  「・・・?ホウボクカン フクオカ?」

  抱樸館福岡と名乗っても知名度はまだありませんから、多くの方が警戒します。北九州では、「北九州ホームレス支援機構です」と名乗れば、直接私が会ったことがなくても、「いつもありがとう」とか「奥田さん元気?」などと会話が始まるのですが、ここではそんな具合にはいきません。

  「仕事や住まいを失った方の生活を再建するのをお手伝いしていまして・・・」とか、「グリーンコープをご存知ですか?」とか、「北九州で野宿の方を支援してきたホームレス支援機構のメンバーです」などと、名刺をだしたり、私たちもなんとか信用してもらおうと、いろんなことを言ったりしました。すると、少し信用してくれたのか、Mさんは「僕は働きたいんです」と言ったのです。

 初めての日は、持っていたお菓子やお米などを渡して、「また来ます」と伝えて帰りました。しばらくして、また訪問。何度か足を運ぶことで、信頼関係をつくっていきます。そのうちに、これまでのことを聞かせてもらい、今後の方向性を探っていきます。

  Mさんは、当時58歳。長崎県の中学校を卒業してすぐに、神戸の鉄工所に就職。その後、炭鉱での仕事、ガードマン、建築関係、溶接業、長距離トラック運転手、タクシー運転手、解体業などさまざまな仕事をこなしてきました。しかし、50代前半で狭心症となってからは仕事ができなくなり、収入が途絶えたことから、車の中での生活がはじまったのでした。(共生の時代2009年7月号に彼のことが掲載されています<コチラから>紙面掲載ではNさん)

  車内での生活がはじまって7年余り。彼は「体調がよくなれば、また仕事が見つかるだろう」と思っていたようです。しかし、車内生活では健康保険証をつくることもできませんし、病院を受診するお金もありません。治療しなければ病気はよくなりませんし、年齢は高くなるばかり。また、電話もありませんし、郵便が届く住所もありません。「就職したいと思って、いくつも面接に行ったんだけど、住所不定ではどこも雇ってくれない」。

  「家がない」ということは、単に「雨風をしのげる場所がない」ということではないのです。連絡先がなくなり、社会制度も使えなくなります。定額給付金(※)も住所がない人はもらうことができませんでした。選挙の投票所入場券も届きませんので、一票を投じることもできません。また、人目にさらされ、「ホームレスだ!」などとからかわれることもしばしばです。Mさんのように「襲撃」を経験する人もかなりおられます。また、生活は厳しく、よくなる見込みも見えない生活は「闇」のようです。こころを「病む」人も少なくありません。

  Mさんは2009年2月に、抱樸館福岡準備室が借りたアパートに入居し、新しい生活に入りました。アパートでの生活が始まりましたが、仕事は見つかりません。元気のなくなった彼がこんなことを言いました。「アパートに入居させてもらって、あなたたちには本当に感謝している。でも、僕は生活保護を受けたいわけではない。仕事は見つからない。保護を受け続けるのは精神的に苦しいので、もう元の場所へ(野宿へ)戻ろうかと思っている。」

  ホームレス支援で必要なことは、関係をつくること、そして継続的に関わることです。アパートを設定して生活保護受給の手続きをしたら、それで終わりではないのです。アパートを借りることはスタートにすぎません。

 「Mさん、仕事が見つからないのはつらいですね。私たちも、Mさんが生活保護を受け続けることがよいとは思いません。Mさんは、仕事がしたいっておっしゃいましたよね。住所がない人を雇うところがないのは、Mさんが一番よく知っているじゃありませんか。Mさんは、働くために、今、生活保護を受けて、やり直そうとしているのですよ。今、野宿に戻ったら、働きたいという希望とは全く逆の方向に向かうことになりませんか?」

 Mさんは抱樸館福岡準備室が借りたアパートに住んでいました。しかし2009年8月頃、私たちは自立のお手伝いをする人たちが増えたため時間がとれず、Mさんと会って話をする機会が格段に減っていました。Mさんは、先の見えないなかで、ひとり悶々としてしまったようでした。2009年8月現在、失業率は過去最悪の5.7%。若い人でさえ仕事を見つけるのは難しい状況にあります。まして、50代後半や60代の方が就職するのは容易ではありません。フルタイムでなくてもかまわないと思うのです。「働く」ということは、社会に参加することであり、働くことが「生きていること」「自己有用感」につながるのだと思います。私たちはこれまで、一緒に仕事を「探す」ことしかできませんでした。しかし、働く場所をつくり、一緒に「働く」ことができるなら、こんなにうれしいことはありません。働く場所が求められています。

                 *       *       *       *       *

  その後、Mさんは抱樸館福岡準備室事務所の上のアパートから、ご自分で引越しました。病気が見つかり、治療しながらの生活です。仕事はまだ見つかっていません。2013年4月現在、有効求人倍率は0.89倍。高齢者や病気のある方が就職するのは、容易なことではありません。Mさんは今(2013)年、63歳になります。


※ 緊急経済対策の一施策として2009年3月4日に施行された給付形式の定額減税政策

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「抱樸館福岡」館長青木が出会ったみなさん~その2

「私の証明」 Tさん 62歳 男性


  「あんな生活、人間のするもんじゃない」。2009年5月、Tさんは6年間続いた廃車での生活をやめ、アパートでの暮らしを始めました。家と仕事のない生活は、「この先、どげんなるとやろ・・・」といつも不安だったそうです。

  昭和21年、福岡市博多区の生まれ。父の仕事は馬喰(ばくろう)で、博多の船着場から壱岐まで子牛をたくさん引っ張って行き、引き換えに大きな牛を連れて帰ってきていたそうです。小さい頃からよく手伝いをしました。しかし、父はTさんが小学校5年生の時に亡くなり、その1年後には2番目の兄が大病のため、治療費を支払うために持っていた牛馬小屋を売らなければなりませんでした。その後は母が「ニコヨン」(日雇い仕事)をして育ててくれました。兄は香椎の食肉店に「丁稚奉公」に行き、その後、弟も同じ店に「丁稚奉公」に行きました。辞典によると、丁稚奉公とは「江戸時代から第二次世界大戦終結まで」の制度とのことですが、戦後生まれのTさんたちの時代にもまだ「丁稚奉公」のような「住み込み」をするところがあったのでしょう。家計が苦しかったため、Tさんも高校には行かず中学校を卒業してすぐ働きはじめました。

  叔父のブロック会社で働いたのち、従兄弟が親方をしていた関係でとび職に就きました。従兄弟とは人間関係が難しく、32歳の頃から日雇いのとび仕事をするようになりました。50歳(1996年)の頃、とびの仕事も少なくなり、ハマ(築港)で朝5時30分から「立ちんぼ」をして日雇い仕事を求めるようになりました。日雇い仕事は毎日が勝負です。一生懸命仕事をしないと、明日から雇ってくれないからです。Tさんは一生懸命働きました。7年間くらいはなんとか生活ができたけれど、50代も後半になりだんだんと仕事が減り「アブレ」が多くなってきました。借りていたアパートの家賃も払えなくなりました。日雇い仲間に相談したら廃車を紹介してくれ、アパートは引き払い、廃車での生活が始まりました。役所に相談するなんて、そのときは思いつきもしませんでした。

  食べるものがないことが、一番往生しました。ときどきは日雇いがありました。(ホームレス生活をしている人のなかに、かつての日雇い仲間が相当いらっしゃるそうです。)ない日はアルミ缶集めをしました。そのうち、美野島で炊き出しがあることを知って、毎週通うようになりました。1週間に1度でも温かいご飯を食べられるのは、とてもありがたいことでした。お風呂には入れなかったから、夏も冬も水道の水で体を拭きました。公園のトイレを掃除したら、近所の人が500円くれることもありました。

  61歳(2008年)の時、生活はさらに厳しくなり、区役所に行き生活保護を申し込もうと決心しました。でも、区役所では「家ば、もっとかな、保護は受けられん。家ば、探してきなさい」と言われたそうです。家を探そうにもお金がなかったので、あきらめました。

  2009年4月、炊き出しでSさん(美野島めぐみの家)に相談したら、抱樸館福岡準備室の私たちを紹介してくれたそうです。今は、部屋を持って、ご飯が食べられて、畳の部屋で眠ることができます。何より安心できたことが嬉しいと言ってくれました。

  ところで、アパートに入居して、まず行う手続きのひとつに住所異動があります。Tさんの住所も異動しようと試みましたが、住所は職権消除(※1)されてありませんでした。住所がなくなっている人はそう珍しくありませんので、戸籍抄本と戸籍の附表(※2)を取り寄せて住所を新しく設定すればよいかと考えていましたら、戸籍も見当たりません。失踪宣告がされており、Tさんは「死亡」したことになっていました。「えっ?俺、死んどうと・・・って、そりゃびっくりしたよ」

  家庭裁判所に申し立てをして失踪宣告を取り消してもらうのですが、身分証明を何も持たないTさんが「俺は生まれてからずっとTです。自分のことは自分がよく知っていますし、うそなんてつきません。」と主張しても、通用しません。

  「私の存在は他者によって示される」のです。私が私であるとは、私が発行できない運転免許などによって証明されます。私が作った運転免許では証明になりません。また私でない他者が「この人が私の弟です」などと言ってくれた場合に信用が生まれます。

  お兄さんもお姉さんも、弟も実は健在です。「会いたいですか?」と私(青木)が訊ねると、Tさんは「会わす顔がない」と言いました。数年前、スーパーでお姉さんとばったり会ってしまったことがあるとのことですが、「Tじゃなかね?どげんしとうと?」とお姉さんに話しかけられ「車の中で寝とうって言われんけん、なんとかがんばっとるよ」とだけ言って、そそくさと逃げてしまったとのことでした。

  「本当は会いたいけど、こんな姿では会えない」ともTさんは言いました。特にお姉さんにはいろいろと心配をかけてきたそうで、「死に目にはなんとか・・・」などと言うので、「それでは遅いです。元気なうちに会いましょうよ」と私が言ってみると、「うん・・・」と心配そうに頷きます。

  私たちの支援は、生活保護を受けられるようになるとか、アパートに入居することが目的ではありません。路上からの脱出を足がかりに、新しい人間関係を作ったり、ご家族との関係を修復するなかで、人と関わりながら共に生きていけるようにお手伝いしています。さらに言えば、失踪宣告の取り消しができて戸籍ができるよりも、Tさんが会いたいと希望しているご兄弟に会える方がずっと大切なことだと思っています。失踪宣告の取り消しの申し立てをする過程で、私はTさんがご兄弟と再び出会えるよう支援したいと思います。Tさんがご兄弟に再び会う日、「私はTである」と証明されます。その日を今から楽しみにしています。

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  その後、Tさんの失踪宣告は取り消され、戸籍も取り戻しました。ご家族とも再会され、今は元気にアパートで暮らしています。今年の5月で66歳になりました。


(※1)届出があった住所地に実際に居住していない者の住民票を市長の職権で消除すること

(※2)本籍地の市区町村が管理を行う住所の移転履歴を記録した表

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「抱樸館福岡」館長青木が出会ったみなさん~その1

「お酒をやめて、みんなと仲良く生活したいです」 Yさん 52歳 女性


  Yさんとお会いしたのは、美野島めぐみの家(※1)のSさんからの紹介がきっかけでした。 「なんとか早く野宿から普通の生活をしてほしい人がいるんです。女性です。でも、お酒はかなり飲むし、自立は難しいかもしれません。 でもどうぞ、一度会って話をしてくれませんか?」と電話がかかってきました。 私はYさんにはお会いしたことはありませんでしたが、Yさんより早くアパートに入居した人たちから、 「気になる人がいるからなんとかしたい」と相談を受けていたので、存在は知っていました。

  Yさんは、小柄で笑顔のかわいらしい女性でした。いつも荷物をキャリーカートでゴロゴロと運んでいるため、 「ごろちゃん」と言われていました。聞くと、天神の地下街で寝泊りしており、テント生活ではないので荷物を置くところはなく、 いつも全ての荷物を持って歩いているとのことでした。

  Yさんは熊本県の生まれで、4人兄弟の末っ子。勉強は苦手で、小学校のときには特殊学級に通っていたとのことでした。 中学校には「猛勉強」して普通クラスに入れてもらったのですが、勉強には全然ついていけなかったそうです。 (しかし、療育手帳は申請したことがなく、なんのサービスも受けたことはありません。 野宿となっている人のなかに、実際は障がいがあるのに、障がい手帳を持っていないという人に実に多く出会います。) 中学校卒業後、地元の縫製工場に入社。27歳まで勤めましたが、結婚を機に退職。男の子をひとり授りました。 しかし、そのうち「自由になるお金がほしかった」と、消費者金融で借金を作ったことがきっかけで、離婚。 このころから、お酒を飲むようになったようです。息子さんはだんなさんが引き取るかたちでYさんが家を出ることになり、 故郷を離れて兵庫県のある温泉の旅館のお手伝いさんとして住み込みで働くことになりました。 33歳のときでした。以降、家族の誰とも連絡をとれなくなりました。

  その温泉旅館では10年間ほど働きましたが、クビとなってしまいました。 仕事と住まいを同時に失い、どこに行ったらよいのかも分からず、東京の上野公園でしばらくホームレス生活をするようになりました。43歳のころです。 そのうち、あるアルコール依存症の方のための団体に誘われて、入寮。 しかし、その団体は近年「貧困ビジネス」(※2)と非難されるようなところで、生活保護費はほとんど取り上げられ、 毎月3,000円しかお金を持たせてくれなかったそうです。そして、入寮したのは東京でしたが、そのうち沖縄の施設に移され、 そして沖縄から福岡の施設に移されて、博多にやってきたのでした。 寮にはつきあいの難しい人も多く、狭い部屋に何人も同居させられ、またお金もほとんど取り上げられるので、 博多の寮から逃げるようにして出てきて、そのまま天神でホームレス生活となったのです。2008年の2月のことでした。51歳になっていました。

  しばらくして、美野島で炊き出しがあることを知り、それからは毎週美野島に行って、ごはんを食べることが習慣となりました。 また、食べるだけではなく、食事のお手伝いもすることになりましたが、テキパキと仕事をすることは難しいようです。

  1年半近く、天神でホームレス生活をしました。天神でホームレスをしていると、女性だからか、よく差し入れを受けたそうです。 差し入れはとてもありがたいものですが、野宿から脱出できるような支援が必要です。 当時は家がないと生活保護を申し込むこともできず、自立できる手段が見あたりませんでした。 また、Yさんはお酒が大好きで、お酒を飲むと止まらなくなります。Yさんもお酒をやめる決心がつきませんでした。

  しかし、2009年5月、Sさんから何度もの「今の生活には区切りをつけて、新しい生活に入ろう。 アパートに入居して、新しい生活をするために、いい人を紹介するから」とのアプローチが実り、私たちに紹介していただいたのです。

  はじめて会った日、Yさんはこれまでの生活を教えてくれ、 そして「お酒をやめて、みんなと仲良く生活したいです」と入居の申し込み用紙に書いてくれました。 これまでは、よくいじめられることが多かったそうです。

  Yさんが香椎のシェルターに入居して1ヶ月が経過しようとしています。 お酒については、精神科に通院を開始し、毎週1回、アルコールのためのデイケアに通っています。 また、シェルターの他の入居者にも協力をお願いし、苦手なところは協力してもらったり、よくお互いの部屋を行き来して楽しく生活ができているようです。 お金を持つと、お酒の誘惑に負けてしまうかと心配していましたが、今のところはお酒を飲まない生活ができています。 それでも、今は週3回に分けて小分けにしてお金を渡しているところです。軌道にのれば、1週間に1回の頻度から、月に1度の頻度にしたいと思っています。

  住所ができたので、今後は療育手帳を申請して、彼女にあった作業所をみつけたいと思っています。 50歳を超え、障がいを抱えたYさんに一般の就職は難しいのです。 そして、最も彼女に必要なのは、普段から気軽に話せたり、冗談の言える友達のような人間関係だと思っています。 彼女自身、「みんなと仲良くしたい」と言っていますが、今後お酒のことでもそれ以外のことでも、困ったときに相談できたり、 また嬉しいときに一緒に喜び合えるような人間関係があれば、Yさんは生活の立て直しがきっとできるだろうと思っています。 そのお手伝いが、今、始まったところです。

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  その後、療育手帳は無事取得し、作業所に通って3年が経過しました。 今は作業所で働きながら、何か困ったことがあると、抱樸館に相談に来られます。アルコール依存も治療は順調です。 完治することは難しい病気と言われていますが、お酒におぼれることもなく、元気にアパートで暮らしています。 仕事があり、なかまができたことがよかったのだと思っています。


(※1)NPO法人美野島めぐみの家。お盆とお正月以外は、毎週火曜日、博多区美野島の司牧センターでホームレス者のために炊き出しをしている。

(※2)ホームレス者や派遣・請負労働者など社会的弱者を顧客として稼ぐビジネスのこと。